子供が生まれる時願うのは「ただただ無事に生まれて欲しい」
子供が病気になった時、あるいは大事な人に命の危機があった時願うのは
「他には何も望まないから、ただ生きていて欲しい」
例題が極端と思われるかもしれないけど
人間の存在理由って何の条件もなく、ただ生きてそこにいること
だと思うんですよね。
頭がいい方がいいとか、可愛い方がいいとかは後付けの条件に過ぎない。
私たちは知らず知らずのうちに、「自分の存在価値」や「幸せ」に条件を
つけすぎているよね。
陰陽師の時代、言葉は【呪】でした。今でも【言霊】という言葉がありますが
言葉が意味を持ち何かを縛り付けたり現実化したりします。
こうだったら幸せ~と例のひとつに「もっとお金があったら幸せ」というのがあるけど
お金はもちろん無いよりあったほうが、できることの可能性が広がるけど
貧乏な人が全員不幸ではないし、お金を持っている人が全員幸せでもない
何より潜在意識の世界では、「もっとお金があったら幸せ」と願うことは
「今お金がないから幸せではない」ということと同義だったりして
その結果、お金が欲しいなと願っている状況が現実化されたりしますよね。
自分でつけた条件に自分が縛られるという矛盾。
空気や水は、無味無臭。
特に空気に至っては、今ここに空気があるかどうかとか意識もしないし
ここで呼吸して良いですか?と許可を取るものでもない
私は高原の空気が好きだから、高原以外では呼吸しません、なんてこともない。
本質的で大事なものほど、そこに在ることを主張しない。
幸せだって、誰かの許可も要らないし
「こうでなければダメ!」「これ以外は幸せとは認めない!」とかやっちゃうと
いつも無いし、欠けているし、喉から手が出るほど求めなければいけないものに
なってしまう。条件なんて要らないのに。
もしどうしても条件を付けるとしたら
無くてもいいけど、あったらモアベターねという感じがいいんじゃないかな。
(小森のおばちゃま風に。でももうこの例えは通じないかもしれない。。)
白いご飯とお味噌汁があればそれで美味しい食事になるけど
そこにお肉だとかお魚だとか野菜が加わると、さらに美味しさが増すよねという話で
おかずが無かったらご飯が美味しくないという話ではない、みたいなこと。
とはいえ、美味しい料理は心を幸せで満たしてくれるけどね